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大野川流域における文化圏成立の謎
 平安時代初期における宇佐神宮では、大宮司職の競望が激しく天
喜元年(一〇五三)から五代の間は大神氏を排して宇佐氏が大宮司
職を独占します。
 大宮司職をうばわれた大神氏は、宇佐神宮の「三国郡御封」とか
 「十箇郷三箇庄」とも呼ばれる神領の一つ緒方荘に下って荘宮とな
り、この地域に勢力の基盤を築くこととなるのです。

 ところで、豊後大神氏の出自を知るのに大変興味深い伝説があり
ます。日向国塩田(現在の清川村宇田枝)に住む大太夫の娘華本姫
 (はなのもと)はまれに見る美女でした。ある夜立烏帽子の優雅な
若者が訪れて姫を口説き、それからは毎晩のように通いつめます。
しかし、この若者がどこに住みどんな身分の人かわからなかったの
で、姫はある晩男が帰るときにその衣に長い糸を通した針を射し、
その糸をたどっていくことにしました。

 糸は山を越え、谷を渡って嫗嶽(祖母山)の大きなホラ穴まで続
いており、穴の中には大蛇がうずくまっていて、「あなたの腹の中
には男の子が宿っている。やがて九州では並ぶもののない強者にな
ろう。」と言い残して死んだという話です。
 また、緒方荘に隣接する入田荘吐合(はきあい)には穴森があっ
て、ここに間口が二十メートルにも及ぶ大洞窟があり、この洞窟が
その大蛇の住み家であったと伝えられています。

 さらに、ここから十五キロメートル程へだてて緒方荘宇田枝名が
あり、華本姫の居所だったという社があります。社は巌穴で清水が
湧き出ており華本姫の許に通う嫗岳の大蛇がこの穴から出たともい
われています。

 こうした伝説は、豊後大神氏が神異の中に大和大神氏の故事を取
り入れながら民心を威服させるために作りあげた物語りであろうと
いわれていますが、姫と大蛇との間に生まれたのが嫗嶽大明神の垂
迹であり、大神氏の始祖でもある大神惟基で、その末裔が「平家物
語」や「源平盛衰記」の中で源平合戦の際の活躍ぶりが記されてい
る九州武士団の中心的存在であった緒方三郎惟栄といわれていま
す。尾形(緒方)という名も惟栄自身、身体に蛇の形をした尾と、
うろこがあったことからその名がついたともいわれています。

 さて、大野川流域には数多くの仏教文化遺跡が残されていますが、
年代的には奈良時代末から平安初期にかけ国東半島周辺に六郷満山
文化が花開いた時代よりは少し下がった平安時代に、豊後大神氏の
下で宇佐縁起をそのまま踏襲しながら日羅信仰を興し、国東半島の
富貴寺に対抗する神角寺を始めとする多くの寺々や磨崖仏などを残
したといわれています。

 こうした六郷満山文化に対抗した背景には、政争に敗れ宇佐ハ幡
宮を去らなければならなかった大神氏一族の怨念のあらわれとも考
えられますし、事実国東半島の六郷満山は仁聞菩薩を中心とした天
台宗の寺々であるのに対し、大野川流域は日羅信仰を興し、真言宗
の寺々、さらにその末裔である緒方三郎惟栄は源平合戦の折、宇佐
神官に大宮司宇佐公通を攻め、そして神殿を破って宝物を奪い、し
かも焼き払うという暴挙からも推察できるのではないでしょうか。

 ところで、平安時代の中頃になると山の修業が盛んになり、山の
中にこもったり山を歩いてまわる信仰が盛んになりました。山の神
秘を身体で体験する宗数的な信仰を修験といいます。

 本県における平安時代の修験の系統は二つにわけられます。その
一つは宇佐修験であり、今一つは大野修験です。宇佐にはじまった
信仰は複雑な要素を持ち各種の方面に発展しました。宇佐古来の信
仰を維持しながら、彦山などの民俗信仰を背景に天台宗の影響をう
けて発展したのが修験者信仰で仁聞信仰となって発達しました。そ
して宇佐修験はいつしか国東の仁聞菩薩という信仰上の開祖を生み
出したのです。

 一方、豊後の大分郡、大野郡、海辺郡地方には石仏や寺院が非常
に多いのですが、それらの彫刻の作風は仁聞の仏とは全く異ってお
り、これらの作は一部を除いてほとんどが日羅の作と伝えられ、そ
の彫刻の年代は平安時代の中頃から末にかけたものといわれていま
す。

 この時代はわが国ではもっとも修験道の盛んな時代で、豊後にお
ける修験は肥後の阿蘇山修験者も多く入ったらしいのですが、この
地方にもっとも力を持っていたのは祖母山を中心とする高千穂修験
でした。高千穂修験の中心は大神氏一族であって日向地方でもあな
どりがたい勢力を持っていたのです。

 また、大神氏の本拠は大野郡であることからこれを大野修験と呼
びますが、日羅が豊後の石仏を作ってまわったということは高千穂
修験を支配していた豊後の豪族大神氏が日羅律師の信仰を盛んに
し、大野修験の開祖にしたのではないかという説もあり、朝地町の
神角寺にしても新羅の僧某が欽明天皇三十一年に建立したと伝えて
いますが、恐らく宇佐八幡発現の年代をまねた伝説で、平安時代に
おける大野修験の本山的立場にしようと建立されたのであろうと考
えられています。

 ところで、大野川流域が一つの文化圏であったという根拠を考え
るには、大野川流域には上流の直入郡・巧網(くたみ)郷、中流域
の三重郷、これから分立した野津院・井田郷、三重郷の西には緒方
三郎惟栄の本領地である緒方荘、北には豊後大神氏一族の大野家基
とその子泰基のいる大野荘が接しており、これらの国衙領はいずれ
も惟栄の支配下にあったことから、豊後大神氏の勢力圏は大野川流
域における仏教文化を中心とした文化圏と全く一致しており、こう
したことから史実がないにしても大野川流域における文化圏成立の
謎もおのずと理解されそうです。

 このような多くの謎を秘めているだけに、大野川流域の魅力は一
層深まるのです。
大神氏関係史跡  大神氏の台頭   大友氏の台頭   大友氏に係る遺跡及び伝承地   大野川流域における文化圏成立の謎
転載:大野川流域の文化財ガイドブック  平成6年3月
朝地町ムラおこし事業実行委員会  緒方町資源調査事業調査委員会