豊後大野市観光協会>大神氏及び大神惟基
大神氏の台頭
 平安朝になると荘園が各地に設けられ、大野郡野津院が国領で院
倉が置かれていたほかは、緒方荘が宇佐神宮領、大野荘が三聖寺領
 (東福寺三聖派)、直人は郷として安楽寺領(太宰府天満宮)と清
涼寺領(京都?)になるなど、多くの荘園が成立し、その地頭職は、
大部分を時代に応じ、大神、大友がにぎり、それぞれの発展の地盤
となった。
 十一世紀になると、大神一族が勢力をたくわえ台頭し、一族団結
し武士団を形成した。その中で日本の歴史に重大な影響を与え、全
国にその名を覇せたのは、源平内乱で活躍した緒方三郎惟栄である。
 この活躍ぶりは、我が国の軍事記の代表作である「平家物語」や
「源平盛衰記」の随所に記されているが、この緒方三郎惟栄を宰領
とする豊後武士団の実力はどこから生まれたのか、豊後大神一族の
出生さえ明らかでなく、多くのなぞに包まれている。
 例えば経済的、社会的、政治的基盤は何であったのかで平重盛の
家人でありながら平家に背いた動機は何か、源 範頼が周防で進
退窮していた時、またたく間に八二そうの兵船を集めて源軍を豊後
に渡した制海権などはどこからくるのか、どうして身の破滅に継が
る宇佐神宮の焼打をしたのか、平家討伐に莫大な功績をたてた彼が
なぜ義経先導役を引き受け没落の運命を決定的にしたのか明らかで
ない。
 また惟栄が歴史上に現われるのは養和元年(一一八一年)二月の
ことであり、文治二年(一一八六年)十一月の遠流が最後であるこ
とから、彼の活躍した期間は、わずか6年の短期間にすぎない。
 それだけに彼を包む歴史は不明なところが多く、神秘のベールに
包まれたままである。
 豊後大神氏の起源については諸説があるが、中野幡能氏の宇佐大
神氏説によると以下のとおりである。
 神亀二年(七二五年)に隼人征服の功により官社に列せられた宇
佐神宮は、神仏習合を強めながら、地方神から国家神へと変貌し、
次第に中央政府との結び付きを強めていく中で、広大な荘園が形成
された。
 こうした中で宇佐神宮の内部では地場出身の宇佐氏と律令神宮出
身の大神氏が互いに勢力を競った。奈良則には、中央とのつながり
を背景に大神の勢力が強かったが、厭魅事件(和気清麿呂神託)に
大神田磨呂が連座して以降、宇佐氏が摂家と結び大神氏を圧倒する
ようになった。
 このような状況から宇佐氏以外の社家は、言外に出るようになり、
大野大神は、速見大神とともに十一世紀後半に宮外に出て土着した。
 大野大神氏の始祖とされる大神惟基は、大野郡領として、宇佐神
宮の封郷である緒方郷の隣接地に地盤を築いた。そして大野郷、三
重郷等の郷司職を獲得し、さらに律令制度の衰退とともに在地領主
化して、勢力を伸ばして行った。
 これを宗数的に見ると、宇佐氏は御許山を開き、さらに六郷満山
を開いたという仁開菩薩の信仰を発展させ、それに対抗した大神氏
は神角寺を開き、宇佐縁起をそのまま踏襲して、欽明天皇三一年建
立とし、日羅信仰を起こして石仏文化を残した。またその独自性を
示すため、大和の大三輪伝説を改造して、緒環伝説を創りだした。
 なおこの説に対し「豊後大神氏は、宇佐神宮の後えいでなく、大
和大神氏が直接当地に入って大和文化を伝えた」とする説もある。
大神氏関係史跡  大神氏の台頭   大友氏の台頭   大友氏に係る遺跡及び伝承地   大野川流域における文化圏成立の謎
転載:大野川流域の文化財ガイドブック  平成6年3月
朝地町ムラおこし事業実行委員会  緒方町資源調査事業調査委員会