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史跡

高尾城跡        緒方町大字軸丸字高尾 町指定史跡

高尾城は天正14年(1586)の島津・大友合戦の古戦場である。高尾城、柏野城、小牧城は緒方三塁といわれ、激戦が行われた場所である。
 『大友興廃記』によると、天正14年、大友の家臣で緒方庄の武士堀中務、阿南但馬守ら緒方庄36人衆が島津軍を迎え討つため山城を築き城に篭る。一方、島津軍は伊集院美作守、平田新左衛門等を将に三千騎を率いて緒方庄に乱入してきた。堀中務ら36人衆は、多勢に無勢のため一旦和解を申入れ人質を交換したが、島津軍が人質を殺害し一方的に破棄したため戦いとなり、緒方勢は全員討死にしたという。なお、この戦いで死んだ人々を千人塚に埋葬したという伝承が残っていたが、発掘調査の結果、千人塚は庶民などの墓であることが確認されている。高尾城には、土塁、竪堀、畝状空堀、櫓第などが現存し当時の城塞の面影を保っている。

烏嶽城跡       緒方町中野字烏嶽・大字小原字堂内 町指定史跡

烏嶽城跡は、烏嶽山頂から俵上岩、大石樫山方面に延びる屋根上に築かれた山城である。天正年間に、島津軍侵入に備えて築城された。城主は掘相撲守で、天正14年に薩摩勢侵攻により落城し、相撲守は追われて高黍畑を敗走中切株につまづいて倒れたところ敵により討死したという。今でも付近にのこる相撲守の後裔は、高黍を栽培しないという。烏嶽城からは、岡城や天正年間に築かれたといわれる各地の山城が一望でき、除法伝達に優れた地理的条件を持つ。また、烏嶽頂上付近には、「御門」と呼ばれる場所があり往時を偲ばせる。「明治14年村誌取調帳」なるものに「掘相撲守城跡嘘は中野村の南方にあり。東西五十間、南北四十間口形をなす。石壁猶存す。天正年間掘相撲守之を築く所と言伝えあり。旧記等なし。とあるという。

冬原監物の石畳        大字冬原字献物

江戸時代に岡城を起点とし、三重方面、宇目方面、木浦方面、尾平方面、尾平方面に街道が延びていた。その後、自動車交通の発達や道路網の整備、農業基盤整備などで埋没し、旧来の街道は徐々に使用されなくなっていった。その街道建設により発掘されたものである。ここは岡〜木浦間の主要道路で、県道緒方高千穂線が整備されるまでは、地域間を結ぶ主要道路であった。「殿様道」とか「木浦街道」とか地元の人々は呼んでおり、約三十年ほど前までは里道として使用されていた。石畳は、砂利を敷いたり開墾したりしたため地下に埋まっていたが、表土を剥ぐと、幅約1.5m、延長約50mにわたり、整然と並んだ敷石が確認された。材質は、阿蘇溶結凝灰岩の比較的軟らかい部分で、石の厚さは約1520cm位である。石畳の下は赤土で、雨が降ると非常に滑りやすいため、急な部分に石を敷きつめたものと考えられる。石畳を登りつめた峠には茶店があったのとの考えられる。石畳を登りつめた峠には茶店があったとの伝承があり、発掘により石の間から多数の磁器片が出土した。ほとんどの磁器片は十八世紀後半の肥前系(佐賀・長崎地方)の物で、一点だけが萩焼の破片であった。宗旨奉行井上快助の紀行文『踏絵紀行』(天保12年・・1841年)によると、「監物の出店に出て」との記述があり、十九世紀前半に茶店が営業していたことがわかる。茶店があった所は、畑になっており、畑の橋には「○○○○里 冬原村 監物」と刻まれた道標がある。上部が欠損しているが、地元の人々によると「岡より三里」の道標とのことである。
名勝

原尻の滝       緒方町大字原尻滝部    町指定名勝

緒方平野の中心を流れる緒方川にあり、高さ約17m、幅約85mの雄大な滝である。阿蘇溶結凝灰岩の浸食により形成された馬蹄形の滝で、平野にあるのはめずらしい。大野・直入地方には、沈堕の滝、蝙蝠の滝、魚住の滝などがあり、いずれも溶結凝灰岩が浸食されて出来たものである。原尻の滝の断壁に、豊富な水が流れ落ちる眺望は、大分県百景にも選定されている。滝の上には、川の中央部あたりに二宮八幡社の鳥居が建てられている。毎年旧暦の101415日に近い土日には緒方三社川越し祭りが行われ、男たちが褌姿で神輿を担いで川を渡る勇壮な姿が見られる。

観音滝        緒方町大字上畑字九折

 上畑の豊営鉱山跡地から、傾山登山道三ツ尾ルートを三十分ほど登ると、高さ約60m程の観音滝に着く。観音滝の名前の由来は地元の伝説で次のように語られている。「昔、観音滝には行者が住んでおり、そこには大蛇が出没していた。その行者が、滝に自力で観音様を彫ったため観音滝と言われるようになった。滝の下流には、サカオケの淵があり、大蛇が住んでいた。行者が、金剛杖で淵を突いたところ、水は地下を流れ、300mほど下流から流れ出すようになった。それから大蛇は滝を昇ることができず、誰でも山に入れるようになった。」岡藩宗旨奉行井上快助の紀行文『踏絵紀行』(天保12年・・1841年)には、次のように記述されている。「(水が)滑らかに土甲(岩壁)をさらさらと流れ、扇を一つと開けて逆さまに建てる形に下広がりに落ちるゆへ、見事なる事云うばかりなし。人里近く場さぞや見物人集まるべきに、辺鄙にて人多く知らず。落口の脇に観音を彫付有り。往昔如何なる手だてにて掘りたるものか、不思議というべし。」
 この観音像は、水の落口から下に約10m、左に約5mの位置にあり、岩壁の窪んだ部分に安置され、未開蓮を手に持っている。地元の伝承では、「観音様は、奥嶽の大庄屋工藤孫兵衛が彫らせた。」とのことである。
 観音滝の絶壁が見渡せる傾き登山道には、修行場と推定される狭い平場がある。この背面には岩盤が控えているが、そこには「四番 那智山 紀州 奉寄進 肥後相平 延岡仁平江 臼杵蔵蔵 肥後太吉 田原廉蔵」と刻まれている。また、滝周辺には「安永6年 五月日 奉建立 常光院」と刻まれた石祠があり、中には未開蓮を持つ観音像が安置されている。

アケボノツツジと祖母山

大分県と宮崎県・熊本県の県境にある祖母・傾山地は、険しい岩峰と深い渓谷が続く。今なお原生林が残る一帯は国定公園に指定され、九州最大の森林生態系保護地域にもなっている。ツツジの群生が多く、5月初旬〜中旬ごろ、尾根や山頂の岩場で、高さ56mにもなるアケボノツツジが、ふわふわと可燐な薄桃色の花をつける姿に心がなごむ。花のあとに出る新葉も美しく、また秋の紅葉シーズンも絶景である。