豊後大野市観光協会>豊後大野市の磨崖仏を訪ねる。(18年3月19日資料)                  豊後大野市の磨崖仏

宮迫東石仏


宮迫西石仏

宮迫東西石仏:渡辺文雄先生(緒方町誌).pdf
宮迫東・西石仏    位置 豊後大野市緒方
 宮迫東石仏は急な坂を上がった林の中にある磨崖仏群。
大日如来を中心に多聞天、不動明王など五体の石の仏が並びます。
そこから500mほど離れた所には、宮迫西石仏が。中尊に釈迦、
右に阿弥陀、左に薬師を配した平等並列形式の美しい形態。
東西ともに平安期に作られた仏像が見せるやわらかい曲線を持ち、
朱や黄色の鮮やかな彩色が施されています。

宮迫西石仏(国指定史跡・昭和9年1月22日指定)
 向かって右から阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来の順に並び、
三尊形式をなさず、平等並列の状態で彫られている。
 三如来とも、裳懸座に結跏趺座し、阿弥陀は定印、釈迦と薬師は
右手を旋無畏印、左手を与願印に結んでいる。肉身は代諸色、
法衣は朱色や黒色で彩色されている。背後の岩壁には二重円光
を彫出している。光背の輪郭も彫刻しており、内部は暗紅色で彩色
され、周縁には墨で梵字が書き連ねられている。
中でも阿弥陀像の光背が最もはっきりしており、円で囲まれた梵字
が多数施されている。
 この宮迫西石仏の造顕時代は、大粒の螺髪や類型化した衲衣、
単調な裳懸の表情から推定すると鎌倉時代と考えられる。
 石仏人口の石段を登った所に、明治二十七年の旧暦三月二十一目
にこの付近の人々が寄進した一対の石燈寵がある。
この記銘年月日からみると昔は弘法大師忌の当日、石仏供養が営ま
れたものと思われる。

宮迫東石仏(国指定史跡・昭和9年1月22目指定)
 中央には大目如来、その向かって右には不動明王、左には持国天が
立っている。さらにこの左右には吽形・阿形の仁王の立像がある。
また仁王の左側には二基の磨崖宝塔が刻まれている。中尊は、地元で
は大目如来と呼ばれている。

 方形裳懸座に結跏座し、右手には胸前で旋無畏、左手は代赭色、
螺髪・眉・瞳・口髭は黒色で、唇・衣は朱色で彩色されている。

不動明王は頭髪・衣文は朱色、肉身部は黒色で彩色され、持国天は
朱色と黄色で彩色されている。
中尊の後壁には、舟形光背が朱色と黄色で描かれ不動明王と持国天の
後壁には火焔光が描かれており絢爛な仏画としての一画を示している。
 これらの石仏からは、平安後期の作風が感じられるが、豪放な造形と
地域色の強い容姿から鎌倉時代に造顕されたと考えられる。
 中尊の左右前方に天保十年<1839年)正月八日寄進の石燈籠一対が
ある。正月八日は初薬師の当日であるから、昔は薬師如来として信仰
されていたことが、これによって知られる。

犬飼石仏

犬飼石仏    位置 豊後大野市犬飼
この犬飼石仏は阿蘇凝灰岩の岸壁に半肉彫された、本尊不動明王と
脇侍仏の二童子からなっております。
本尊不動明王は、高さ3.76mの大座像であり、脇侍仏は向かって右側
合掌姿が矜羯羅童子で高さが1.7m、左側の金剛棒を持って立っている
のが制叱迦童子で高さが1.73mあります。
本来、不動明王は恐ろしい形相をしているものですが、本不動明王の顔
は極めて温顔であり、半眼(左眼を墨で一線書きにしているため、片目を
つむっている状態です。)で民衆を浄化しております。
又、両足を組んで、足の裏をはっきりと表面に向けて座る結迦跣座の
表情も興味深い点であります。

この石仏、は伝ええるところによると日羅によって彫られたといわれており
ますが、その一面鎌倉時代以前の古い様式がうかがえるため、製作時期
は平安時代まで遡る可能性も考えられております。
 石仏上方の岸壁には「龍伝山」の三大朱文が彫られ、又、堂側右岩側に
ある「南無大師遍照金剛」のハ大文字はかなり時代が下がり刻まれ、厚い
大師信仰をしのぶことができます。
 境内には他に、永徳二年(1382年)の刻銘のある石造五輪塔、堂右には
洞龕のミ二五輪塔群があります。

与謝野晶子歌碑
 犬飼の山の石佛龕さえもともに染めたり淡き朱の色

瑞光庵磨崖仏 不動明王


瑞光庵磨崖仏     位置 豊後大野市緒方
 瑞光庵は、緒方村誌(昭和9年発行)に「古老の伝説にも詳ならず」と記述
されており、由来は不詳である。
本尊は、千手観音、阿弥陀如来、薬師如来で、伝承によると観音は何度も
盗難に遭いかけたが、菩薩の威徳により盗人は走り去ることができず盗難を
免れたという。
 瑞光庵の裏側の岩窟は、幅6m、高さ2mで、奥壁には不動明王が掘り込
まれている。岩窟の入口には、方形の羨道部分があるが、当初から磨崖仏
を彫り込むために造られたかどうかは判然としない。
大野川流域には犬飼・普光寺・軸丸磨崖仏以外、ほとんどが近世の作である
が、この中でも瑞光庵磨崖仏は、表情や下半身の造形の手法を見ると極めて
近世の作であると考えられている。
岩窟内に掘り込まれた特異な形態が珍しいため、人々の関心は高く参拝者も
多い。
 現在も越生区で不動様祭が行われており、大野川流域の不動信仰を考える
うえで貴重な資料である。

 越生の瑞光庵の境内には、しめ縄が巻かれた「蓬來」と呼ばれる亀の首が
安置されてる。昔は、瑞光庵裏側の岩壁に取り付けられていた。
 蓬來とは、中国で興った道教の「神仙思想」に出てくる神山のひとつである。
 神仙思想とは、不老不死と幸福を求める一種の宗教であり、史記によると
「渤海の中に、蓬來、方丈、瀛州の三神山がある。そこには仙人が住み、不老
不死の薬があって山上の鳥獣はすべて純白である。
 仙人の住む宮殿は金銀でできており、三神山は遠くから見ると雲のように見え、
俗人が近づくと風が吹き戻し近づけない。
この三神山を支えているのは、宇宙最高神の北極帝に使わされた亀でる。」と
記述されている。秦の始皇帝や漢の武帝などは、神仙思想の熱心な信奉者で
あった。
特に武帝は、神仙思想をもとに庭園を築いており、他の中には亀の形をした蓬來
島を造ったといわれている。このような庭園の形式が日本に伝えられ、越生の
瑞光庵に庭園が築かれた祭に、「蓬來様」が造られたのではないかと考えられる。



菅尾石仏
菅尾石仏      位置 豊後大野市三重
国指定史跡・昭和9年1月22日指定国重要文化財・昭和39年5月26日指定

菅尾石仏は、阿弥陀如来を中心に五体の仏像が岩に刻まれた磨崖仏で、国指定
史跡と重要文化財になっています。
 100あまりの石段をのぼると、西向きの石仏が拝観されます。
左から千手観音、薬師如来、阿弥陀如来、十一面観音、多聞天の順に並んでいます。
 高さは180cmから190cmで、丸彫りの仏像です。仏身に着色された色彩が古さを
引き立て、おだやかな姿と表情に、拝観者は思わず合掌するほどです。
 紀伊国熊野権現をここにお迎えしたと伝えられ、むかしから土地の人々は岩権現
と呼んでいました。造られた年代は十二世紀後半で、※緒方三郎一族が建立したので
はないかと推定されています。      (十二世紀末の源平争乱期の英雄)
六字名号
菅尾石仏に向かい合って「六字名号」があります。
これは「南無阿弥陀仏」と岸壁に刻み付けている経文です。
総高12Mで、一字が約2Mほどです。
仏という字の縦線に一人が入ります。
宝暦三年(1753)から一年がかりで彫刻しました。
黙和尚の見事な筆跡です。

青面金剛石造
左手の大岩に穴をくりぬいて仏像を安置している
仏像は6本の手を持ち、両腕で日輪、月輪を支え、右の一手は女の髪を掴んでいる。
一般に「庚申さま」と呼び、豊作の神として信仰された。

余話  鬼が造った石仏
あるとき、三匹の鬼が宇対瀬の里に来ました。
鬼は村人に娘をくれと言いました。
村人の困っているのを見た寺尾寺の和尚さんは、寺の裏山に石仏を彫るよう命じました。
もし日限まで彫れれば娘をやる。出来上がらねば征伐すると言いました。
鬼は石仏を彫り始めました。日限までには出来上がりそうです。
大変と思った物まね上手の瀬口どのは、うちはをたたいて鶏のまねをしました。
鬼は征伐されたら大変と、石仏を彫り残したまま逃げてしまいました。
だから一体だけは完成していないのです。
(参考 小野 博 「宇対瀬の民話)

千手観音 1.94m 千手千眼で衆生の苦難や願いを見通し救済・成就する仏
薬師如来 1.76m 衆生の病苦や悩みを救う仏
阿弥陀如来1.82m 極楽世界に住む仏で、この名号を唱えると浄土に往生する。
十一面観音1.88m 衆生の苦を転じ仏果を与える菩薩、頭上に11面の仏面をもつ。
多聞天  1.39m 仏世界北方を守る神で、刀を持ち宝塔を左手に載せている。

大迫磨崖大日如来坐像


大迫磨崖大日如来坐像     位置 豊後大野市千歳
県指定有形文化財・昭和51年

この大目如来は、高さ3.2mの磨崖仏で希有の巨像です。室町時代天保二年
(1533年)頃日羅の作と伝えられています。
壁岸に大まかな像を刻み出し、その上に麻などの繊維を混ぜた粘土を、厚さ15cm
から20cmほど塗って表面を仕上げた珍しい造りです。
とりわけ、顔の大半は粘土でおおわれた独特の表情をしています。
 現在の塑像は、江戸時代に修造されたそうですが、その顔には大野地方に勢力
をふるった緒方・大野氏が滅んだ後の霊がこめられているとも言われています。
 社の近所の笹を牛に食べさせると牛の病気よけになると、古来より牛神として
地方の尊信を集めています。

普光寺塵崖仏



普光寺磨崖仏     位置 豊後大野市朝地
豊後塵崖仏には驚く程巨大な彫像が多いが普光寺塵崖仏もその1つで、高さ20m、
幅10m程の凝灰岩の垂直壁面いっぱいに火焔を彫りその下に大きな両眼をむき
出し、左手に羂索(捕り縄)、右手に降魔の剣を握り、左右に二童子を従え、どっかと
結跏跌座した不動明王像が、中肉程度に彫出されている。
 その表情には大らかさがあふれており、通常の不動明王像の威圧的な姿と異なり、
ややユーモラスな、又は無邪気なとも言える表情であって、この点で豊後高田市熊野
磨崖仏の不動明王像と共通したものがあるが、この像の方が多少形式的であり、
制作年代がやや下るものと思われるが、二童子の優れた写美刀から見て鎌倉時代と
見られる。
 豊後国志に言うところの日羅建立7箇寺の中の筑紫尾寺が普光寺に当り、この不動
三尊像も、7箇所に1個ずつの磨崖仏を彫ったと伝えられるものの1つに該当する。
 不動明王像の向かって右手に高さ6m、幅8m程の大きな石窟が2箇所並んでおり、
中1箇所に懸造りの仏堂(護摩堂)がはめ込むようにして建てられ、その石窟側壁に
高さ3mの多聞天立像が浮彫りとなっており、他の1箇所には近世の磨崖不動三尊像
や丸彫りの大目如来像その他が数に1個ずつの磨崖仏を彫ったと伝えられるものの
1つに該当する。
 不動明王像の向かって右手に高さ6m、幅8m程の大きな石窟が2箇所並んでおり、
中1箇所に懸造りの仏堂(護摩堂)がはめ込むようにして建てられ、その石窟側壁に
高さ3mの多聞天立像が浮彫りとなっており、他の1箇所には近世の磨崖不動三尊像
や丸彫りの大目如来像その他が数?安置され、これらを含む谷全体が1つの霊場として
構成されている。

「豊薩の役」による打ち壊しで没落
天象14年(1586年)豊薩の役が起こり、島津軍が豊後を侵攻。つぎつぎと降伏するなか、
若き勇将の志賀親次は最後まで落城を許しませんでした。しかし志賀村の神社仏閣は
薩軍により打ち壊しや焼き討ちに遭い、普光寺も衰退したのです。

★真言宗の密教寺院として復興
 朝鮮出兵の失態で大友義統が豊後を除国されたのは文禄3年(159年)。
志賀親次も牢人となり播州(兵庫)より中川秀成が大野・直入両群の領主として岡城主
となりました。その後、中川三代目の久清は岡城の鬼門にあたるこの普光寺を真言宗
の密教寺院として再興したのです。

もうひとつの名「あじさい寺」の由来
 復興の後、地域の有志たちによって普光寺には約3、000株の紫陽花が植栽されました。
うっとうしい梅雨の季節に美しい彩を添える紫陽花の花。6月中旬の境内には色とりどりの
花で埋め尽くされ、あじさい祭りが行われます。

落水磨崖仏


木下磨崖仏


落水磨崖仏    位置 豊後大野市大野
大野町住吉
10mもあるうかと思われる岸壁の、地上3m程の処から上に不動明王立像が浮彫りとなっ
ており、この壁下から豊かな地下水の湧水が見られる。
傍らには高さ5m程の間に名号「南無阿弥陀仏」「明和二乙酉七月二四日施主宗典」の
刻銘がある。不動明王像もその頃の作と見て差支えないものと思われる

木下磨崖仏
大野町十時木下もと吉祥庵と称された禅堂があったと伝えられる箇所付近の、南面した
岸壁の地上約1.8m程のところに、幅5.6m・高さ1.1m程の横に長い龕を彫りこみ、中に比丘
形六体、如来形二体、菩薩形二体の合計十体の座像を肉厚に掘り出したものであり、向
って右端の比丘形坐像は特別に龕を深く掘りくぼめ、他の諸像よりもやや大きく彫ってある
のは願主像であろうかと思われる。

 他の比丘形は地蔵菩薩像か願主一族像かのいずれかと思われる。向かって右から2番
目の如来形坐像は、施無畏・与願印か上品下生印かと見られるが、指の欠失多く、釈
迦如来像か、阿弥陀如来像か見分けがつかぬが、5番目の菩薩形が蓮華を持つので観
世音菩薩像、向って左端の菩薩啓の宝冠に水瓶が彫られており勢至菩薩像であること
が分かるので、2番目の如来形は阿弥陀如来と見ることもできるが、如何なる理由で
両脇侍が阿弥陀如来像の傍らに置かれていないのであろうか。これらの磨崖仏の傍ら
に宝篋印塔の塔身があり「永和元年八月十八日比丘元玉」の刻銘があるので、これら
の諸像も南北朝の末年頃の作と見ることができる。

豊後大野市磨崖佛めぐり \800
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磨崖仏マップ     豊後大野市の磨崖仏      大野川流域における文化圏成立の謎

※この資料は三重観光協会理事研修に使われた資料です。資料、文章等の転用は出来ません。
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