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緒方三郎惟栄館跡       緒方町下自在


 緒方三郎惟栄は、緒方荘の荘司である。当時の緒方荘は、宇佐官の荘園であり、緒方惟栄は平重盛の御家人であった。しかし平重盛の没後反旗を翻し、寿永
2年平家が都落ちし太宰府に至ったとき、臼杵惟隆とともに太宰府を攻め平家を追い落とした。また源氏に兵船八二?を献上し平家討伐に貢献した。ところが元暦元年7月、惟栄は宇佐宮を焼き討ちし神殿の破壊や宝物、古文書の奪取、神宮の殺害などの大罪を犯した。朝延側は大いに驚き、神罰を畏れ緒方惟栄等を流罪に処し領地も没収することになった。しかし文治元年10月突如として非常の赦しが発令された。平家討伐に多大な貢献をしたため恩赦であろうといわれている。
 平家滅亡後、頼朝は義経討伐の命令を下し、義経は後白河院に強要し頼朝討伐の院宣を下させた。しかし義経に呼応する者はなく、やむなく九州に降りることを決意した。義経は、院に対して豊後武士等に協力させるよう要求した。緒方惟栄等の傑出した戦力を期待した上での要求であった。そして11月6日、惟栄は大物浦(現尼崎市)で義経を迎え豊後へ出発しようとしたが、夜半から大風が吹き荒れ船団は壊滅した。義経は和泉浦に逃れ、惟栄等は捕えられた。
 文治2年11月、惟栄は上州沼田荘(現群馬県沼田市)に歯配流された。その後、惟栄の動向は定かではないが、赦され佐伯荘に帰ったとされる。また、伝承では赦されて帰る途中、速見郡山香郷で平家の祟りにより落馬して死んだとも云われている。なお、緒方町大字上自在字城は、古くから惟栄跡と伝承されており、豊後国誌には「緒方惟栄館跡緒方郷上自在田間二在リ」と記されている。

    市指定史跡:昭和47年6月29日指定  所有・管理団体:上自在区

緒方三社


 緒方町久土知にある一ノ宮社、緒方町原尻にある二ノ宮社、緒方町上自在にある三ノ宮社の三つの神社の総称である。いずれも、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて豊後国大野郡緒方荘を領した緒方惟栄が1178年に(治承2年)に建立したとされる。伝説では、惟栄が緒方町宮尾にある元宮から3本の矢を射て、1本目の矢が落ちたところに一ノ宮社、2本目の矢が落ちたところに二ノ宮社、3本目の矢が落ちたところに三ノ宮社を建てたという。
 一ノ宮社の祭神は父である仲哀天皇、三ノ宮社の祭神は母である神功皇后、二ノ宮社の祭神は子である応神天皇である。二ノ宮社は原尻の滝近くにあり、滝のすぐ上流の緒方川の中にはその鳥居が建っている。

健男社霜疑日子麓社(健男社)    緒方町上畑


 西歴512年第27代継体天皇の時代に大野郡上畑村黒嶽に祖母嶽の神が御降臨なされたことを知った奥嶽の宿彌はこの他に社廟を建て神主となって以来祭式を厳重に執り行った。その後応永8年西歴1401年、奥嶽兵衛四郎入道道鉄によって上畑村黒嶽の麓に遷生され社が創建される。黒嶽の麓であることから、それにちなんで健男霜疑日子麓社と名付けられたと伝われている。(神社庁大鑑による)

姥社   緒方町上冬原


 姥社創建に関わる「姥伝説」(蛇婚伝説)の中で、伝説の中心人物である花御本姫の父、佐兵衛藤原仲平が延喜7年(906)頃に緒方庄に住んでいたと云われており、このことより姥社の創建はかなり古い年代に遡ると考える向きもあるが定かではない。神門の創建年代については、神門と本殿の柱を中心とする材質・構造・傷みの状況とを比較して同時期のものと考えられる。一方、当社の獅子舞が天明8年(1788)に今山組より伝授されたという記録があり、この獅子舞は、現在の本殿新築上棟から五十年目にあたる祭の記念行事であったという言い伝えがある。このことから、神門と本殿は遡ること五十年前の元文3年(1738)頃、ほぼ時を同じくして建立されたものであろうかと推察される。なお、明治15年(1882)に大修復上棟の記録がある。齡ツに施された龍の彫刻は、その規模、構図、迫力、精巧さ供に見事な出来映えである。

(注) 姥伝説
 花御本のもとに毎夜のように通ってくる美しい若者がいたが、若者の素性は誰一人知る者がなかった。それを案じた花御本姫の両親は、若者の狩衣の襟に苧環の糸を針で刺し、帰っていく若者の後を追わせることにした。姫やその姥がたどり着いたところは嫗岳の麓にある洞窟で、その中から姿をみせた若者の正体は嫗岳大明神という大蛇であった。首筋から血をほとばしらせる大蛇の姿を見た姥は驚いて逃げ出したが、その途中で息絶えてしまった。後にその地に社が造られ、名を姥社という。

尾平鉱山跡     緒方町上畑

 豊後大野市南西端にある祖母山の麓に、尾平鉱山跡がある。豊後大野市緒方町の中心部から車で約一時間。曲がりくねった道沿いに茂る杉林の合間に、石組みが隠れるようにのぞく。尾平鉱山は、1547(天文16)年に銀鉱脈が発見され、最初は銀山として開発された。のちに、錫・鉛・銅鉱山として開発され、江戸時代に岡藩(現、竹田市)が経営した。1950(昭和25)年頃の最盛期には約400人が働き、昼夜をおかず採鉱が行われた。埋蔵量の減少などから、昭和30年代初頭に閉山し、以後、地域は急速に廃れた。現在は、コンクリート基礎が露出した選鉱場跡が残っている。坑道や運搬路の周辺には、自然林が蘇り、歳月の流れを感じさせる。
旧緒方町役場   緒方町馬場


 緒方駅の東側の小道を3分ほどのぼって行くと、崖上に旧緒方村役場(国登録)が立っているのがみえる。1932(昭和7)年に、緒方村と南緒方村が合併した際に建てられた。その後、庁舎が移転したため、公民館や看護学校として使用された。屋根は洋風瓦葺き、正面に突出した玄関は、スクラッチタイルや金属製の庇持送りなどで装飾され、玄関天井部分と2階議場天井部分には、菊花型の石膏レリーフがあしらわれるなど、洋風の雰囲気を出している。

三反畑板碑(さんだんばたいたび)(県文化)  緒方町上自在


 緒方三郎惟栄館跡から400mほど西の農道脇に、三反畑板碑(県文化)がある。現在は廃寺となっている永福寺跡にある巨大
な板碑で、高さは約3mもあり、県内でも最大級の大きさである。造立は刻銘により「天授三(1377)年」とわかる。

森園天満社          緒方町馬場


 馬場村字市口鎮座の天満社、字三崩(「三枝」ともいう)鎮座の熊野社、字森園鎮座の天満三社五体を本社に合祀し、明治10年(1877)2月に森園社と改める。昭和9年(1934)に柏木に移転、昭和52年2月より森園天満社と改称した

市口天満社         緒方町馬場

 当神社は森園天満社の元宮といわれている。古老の話によると、今から150年前に建立されたという。神社は小さなものであるが、御神体は立派なものである。森園天満社と三崩の熊野社・市口天満社が明治10年に合祀され、森園社となったが、市口天満社の社中で家々に災難が起きて相談の結果、神様のお怒りではないかということになり、ある夜に社中の人々が白衣をまとって御神体をお戻しした。以後、何事もなく平穏無事である。
金比羅社          緒方町馬場


 以前は、三崩に熊野社があったが、明治10年2月に市口天満社と森園天満社が合祀され、現在の森園天満社になった。金比羅社が建立されるまでは、三崩には21年間、神の不在の状態であった。災難、悪病の流行などがつづき、明治18年には5軒もの家が大火に見舞われている。このようなことから金比羅様は建立されたものと思われる。三社合祀の形で祭典を行っていたが、昭和50年、駅よりも下の地域で7名もの死者が出た。調査してもらった結果、三社の合祀はできなとのことで、以後は金比羅社の祭典を区の行事として3月10日に行っている。平成10年(1998)で建立以来ちょうど100年が経過したことになる。

滝の大鳥居         緒方町原尻

 緒方三社の鎮座770年を記念して氏子の信仰を深め、さらに町の観光施設の一翼にしようとして建設された。竣工費670,000円(町補助金20,000円・寄付金350,000円地元負担金300,000円)委員長・橋本登氏のもと三社より世話人を選出、氏子の人々の勤労奉仕もあって昭和29年(1954)5月に高さ9、7メートル、幅6,7メートルの大鳥居が完成した。
大福寺       緒方町井上
今から360年前、藩主中川久盛公が先代秀成追福菩提のために、碧雲寺の乾門玄剛大和尚に屈請して大福寺を再建させた。
天徳寺       緒方町小宛

 観音堂に秘仏聖観世音菩薩像を安置している。もとは保全寺の奥の院として隣地の字古屋敷にあった。戦国期の戦乱によって保全寺が焼失、衰微した後に文明15年(1483)薩摩国福昌寺揚嶽大和尚が開山となり、現在の地に禅道場として再興された。秘仏観世音菩薩像は、もと保全寺の御本尊であったが、明治初年の寺社併合政策に当寺に観音堂を建立して安置した。17年目ごとに御開帳が行われる。毎年4月に大祭を行っている。
中川家の墓   緒方町小宛(保全寺山頂)

  中川久虎塔

墓石に次のことばが記されている。(原文は漢字であるが高野好古氏の訓読されたものを掲載した。)岡城の輔宰右門は、諱は久虎、氏は中川、すなわち前の府君久清公の孫、久恒公の姪、久豊の子なり。箕裘業を継ぎ、政綱を張皇し、以て股肱の力を尽せり。年三十有九にして享保十五庚戌三月念七鳥、病に罹りて卒す。遺言もて保全山に葬る。父久豊の塚下に接す。いわゆる終りを慎み遠きを追ひしものか。辞に日く。

南林寺      緒方町小宛

 開基以来六〇〇年を経る古刹、昇龍山南林寺は、色鮮やかな花鳥風月を描いた天井画で知られる。岡藩主中川公の許可を得て、祖母山の原生林から切り出された大クズで建造された本堂は、約三〇〇年前のもの。 江戸期に描かれた天井画は風化が進んでいたが、平成九年に修復され、往時の面影が蘇った。